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  「愛句百句から」あとがきなよると、一般にはあまり知られていないが、自分では好きでたまらないいわば秘蔵のよろこびを味わせてくれる句がある。それらの句をまとめて鑑賞したら、どんなに楽しかろうと日頃おもっていたので、この本の実現はまったくうれしいと・・・・。

透きとほる熟柿や墓は奈良全土   澁谷  道  海程同人

 澁谷道の「全土」は、「国のまほろば」の大和。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と、柿好きの正岡子規がいささかの愁いをこめて詠いあげた、柿熟るる「奈良全土」である。 作者は奈良にきている、いや、いまはきていないのかもしれない。目のまえに熟柿を見ているJ木についたまま熟れたもので、空のひかりに朱の果肉が透く感じなのだ。あるいは、すでに卓上におかれ
てあるものかもしれない。

 それを見ていると、「奈良全土」への想念がひろがるのだ。いま奈良にいるとすれば、自分を軸にして四方にひろがる。遠く離れておもっているとすれば、自分を光点として放射状にひろがる。そして、その全域にさまざまな墓が見えてくる。古墳あり、石の墓あり、かの祖神の霊異と女身のあわれがしみる箸墓(はしのみはか)も見えていよう。

澁谷 道
昭和21年平畑静塔に、同42年橋かん石師事。文学的虚実を表裏として独自な幻想的俳句世界を志向。前衛的な「夜盗派」「縄」を経て「海程」所属。俳句と連句誌「紫薇」創刊。現代俳句の女流第一人者、死去


大き背の冬の象動く淋しければ  芦田きよし  海程同人

  この句をつくったときの芦田きよしは、神戸の高校生だった。港にむかって傾斜した街をおりてゆくときの白っぽい空気が感じとれ、眼鏡をかけた色白の芦田の細めの首筋が見えてくる。

かれはこのあと哲学を学び、京都大学の大学院に籍をおいていたが。二十五歳で死んだ。腸閉塞の手術台に、「物理的に処理するんや」といって上ったのだそうだが、それが最期だった。

 死は昭和38年(1963)の暮。もう15年も前のことになる。芦田は象を間近に見ていた。しかし、「大き背の冬の象」といういいかたからは、ただ見ていただけではないことがわかる。象の背筋を大きいと見上げたとき、ああ、「冬の象」なんだなあ、とおもっていたのである。そのおもいにとらわれているとき、象の背がくらりと動く。おやとおもい、おもったとき「淋しければ」(淋しいから動いたんだ)という感応がことばになる。

 すでに高校生のときから、芦田は論理に潔癖だった。こまかな、きちんとした字を、(ハガキいっぱいに書きこんだかれの便りの清潔感が忘れられない。かれの友人は、「論理の清潔さとは、短命の思想に他ならない」と書いて、よき才能の夭折を倬んでいたほどだが、私はそこに、論弁に明晰であろうとする芦田の誠実さを見ていた。したがって論弁がくもるときは、それを不誠実として痛く恥じ、その恥じる様子の卒直さには飄逸ささえあった。誠実な知性こそ、ときに飄逸なりとおもいつつ、この句を読むと、どこかにその飄逸の気配が感じられてくる。若い芦田は、神戸の冬景色のなかの象に、はやくもかなしみをおぼえて、明晰にはなりきれなかったのだろう。