「放浪行乞 山頭火一二〇句」より 集英社 1987刊

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 鉄鉢の中へも霰   (てつぱちのなかへもあられ)

 昭和七年(一九三二、五十一歳)一月八日の作。第三回行乞途上の作で、前句同様、(うしろ姿のしぐれてゆくか) 山頭火の代表作の一つといえる。

 この句については、山頭火の自解の文、「鉄鉢の句について」がある。それによれば、この句ができた日は、「雪もよひの、何となく険悪な日であった」という。山頭火自身も「陰鬱な気分になってゐた」が、それは天候のせいばかりではなかったようだ。

 「数日来、俊和尚に連れられて、そのお相伴で、方々で御馳走になった。私はあまり安易であった、上調子になりすぎてゐた。その事が寒い一人となった私を責めた」。「和尚」とは、福岡県神湊(現、宗像郡玄海町)の隣船寺住職のことで、山頭火の俳句仲間であり、飲み仲間でもある。この第三回の行乞は、九州の北から西にかけて行われ、五十一歳の山頭火には、脚気らしい脚の痛みも加わって、辛いものだったから、俊和尚のもとでの正月の休息はありかたいことだったに違いない。それに当然正月といえば酒が豊富に出現する。山頭火は浮き浮きと俊和尚の後をついて歩き、心にもないお世辞などを述べたりしていたのだろう。さて行乞にでると、その飲み暮らした正月のことが気になってくる。実に憂鬱な気分になる。

 それだけに、門に立ち、鉄鉢を捧げたとき、霰がそれを叩いた。その衝撃が常のとき以上に響いたのだ。

 「その時、しょうぜんとして、それではいひ足らない、かつぜんとして、霰が落ちて来た。その霰は私の全身全心を打った。いひかへれば、私は満心に霰を浴びたのである。」

 山頭火の断想風の記録のなかに「断-空-暗-明-黙」があり、「無にはなれるが、空にはなかなかなれない」などがある。この「断」の寸刻を、このとき彼は体験したのではないかと私は思う。もっとも、その前提になる観念ともいうべき、「無」や「空」について山頭火ははっきり書いていないから、すべてが私なりの勝手な理解になるのだが、私は、「無」は名利係累を捨てて身一つになることと受け耿る。名利係累は外側にある〈有〉だから、その有を捨てて無になったといっても、わが心身なる有は残る。無といっても相対的な無にすぎないから、心身の執着は残るだろう。ことに山頭火の我執は強く、食欲(ことに酒欲)や色欲も旺盛だから、無で済ませられるものではない。そこで、自らいう「心そのものの放下着」を求めることになる。それが「空」と私は受け取る。

 霰が鉄鉢を打った瞬間、その「空」の状態を得たのではなかったか。それだから「断」なのである。しかし、その状態は長続きしないで、ふたたび「暗」となり、少し「明」をも体験し、行き交って、ついには「黙」―山頭火は沈黙の淵に沈みこんでしまうのである。この句のときも、そんな経緯の中で、いわば元の木阿弥だったのだろう。だから、この後で、「けふは霰にたたかれて」ともつくったが、これについては自分で「センチが基調になつてゐるから問題にならない」と批評しているように、確かに甘い。「センチ」はむろん「感傷」のこと。それから 一年四ヶ月たって、わざわざ、「いつぞやの鉄鉢の句訂正」なぞと前書まで付けてつくり直した「霰、鉢の子の中の」もじつに甘い。