20120318211818c0a
   晩年の高柳重信

 まなこ荒れ
 たちまち
 朝の
 終りかな         高柳重信 (Wikipediaにリンク)



 この句について私はこう書いたことがあった。「大正というヽ冬の午後の陽ざしのような年代に生まれた男たちのあいだにしか通用しないデカダンスの味わいなのかもしれない。」高柳重信も私も大正世代である。吉岡実がこの意見に賛成していたが、かれも大正生れである。

明治四十年(1907年)生れの中原中也は、五歳から十九歳までが大正時代だった。中也の有名な詩「朝の歌」や「悲しき朝」をおもいおこす人がおおいはずだが、「朝の歌」のはじめの、「天井に朱きいろいで/戸の隙を 洩れ入る光/鄙びたる 軍楽の億ひ/手にてなすごともなし。」のような気怠さは、高柳重信の句とどこか相通うものがある。自由詩と最短定型のリズム感の相違ほどには、双方の意識状態の隔りはないようにおもえる。

 私かそんなふうな鑑賞を人に話したところ、その物知りは頷きながら、「まなこ荒れ」は心理であるとともに生理かもしれぬ。「ほら、ア音は陽精の発起、サ音は生化の初めという説かおるだろう。朝の交情で疲れたのだよ。中也のほうは朝の手淫のあとかもしれないぞ。十九歳のときの詩だろう」といった。なるほど、そこまで勘繰るのも鑑賞の楽しさである。私はあっさり肯定した。

 高柳重信のこの書きかたは「多行書き」ということになるのだが、それについての説明は省略する。ただ、こういう表記の一態が俳句にあることか承知しておいてもらえばよい。高柳式多行書きを受けいれた大岡頌司は、こういうふうにつくっていたが、これも私の好きな句の一つ。「黄泉の厠に/人ひとり居る/暑さかな」


aiku100


 「愛句百句から」あとがき

 一般にはあまり知られていないが、自分では好きでたまらないいわば秘蔵のよろこびを味わせてくれる句がある。それらの句をまとめて鑑賞したら、どんなに楽しかろうと日頃おもっていたので、この本の実現はまったくうれしいと・・・・。兜太