bokuyaosin
  寺山修司の「牧羊神」に参加。

 旅人よみえたる二階の灰かぐら       安井浩司(やすいこうじ)

 安井浩司は歯科医だが、私にいわせれば〈漂泊の歯科医〉ということになる。漂泊の心底を蔵したまま定住の居を捨てず、そこに精神と表現の塔の屹立をはかる〈定住漂泊者〉がおおいが、安井の場合は定住漂泊者とはいいがたいものがある。

学校をでてしばらく関東平野のどこ
かにいたかとおもうと、飛騨高山で開業していた。そして、いつのまにか東北は秋田に移っていた。秋田が出身地らしいが、ここに永住するつもりかどうか、と疑わせるくらいに、安井の骨ばった顔を吹きすぎる風はとりとめない。

私は、同じ歯科医の西東三鬼をおもいだすのだ
が、この人も定住をよろこばぬ漂泊者だった。歯科医には、こういうタイプがおおいのかもしれない。口腔というきちんときまった空間ばかり覗いていると、定住嫌いになるのかもしれない。

 なお、定住嫌いの漂泊者というものは、放浪者とは違う。放浪者ほど不定住ではなく、しかし、どうにも一定のところに長くはいられないタイプなのである。葛飾北斎とか松尾芭蕉、小林一茶といった人も、この型の漂泊者と見てもよい。

したがって、ヒョイと、とんでもないと
ころで自分の気にいった土地にぶつかると、もう動かなくなる場合がある。たましいがちらちらしなくなるのである。尻がうずうずしなくなるのである。放浪者でもそういうことが間間あるが、やはり腰のすわりかたが違うようだ。放浪者の場合は、気にいった土地に一応は定着す
るが、なんとなくそわそわしている。泣きごとを並べたり、酒をのみすぎたりしている。そこが違う。

 この句の「旅人」は放浪者ではないとおもう。あんがい自分のことかもしれない。「よ」などという呼びかけに、妙に自己愛惜が感じられたりもする。通りしな、二階に灰かぐらが見えたのである。むろん、偶然の所見で、この家の人を知るよしもない。なんで灰かぐらなどたてたのか、そんなこともわかりはしない。ただ、ばあーと二階に灰かぐらがあがった。それを見て、過ぎた。

 わびしい。安井浩司は俳句は「もどき」だといっていたことがあるが、この行きずりの景も、もどきのようだ。もどきかもしれない。そして、旅人のこころに、ようやく定住へのおもいが兆しはじめていたのかもしれない。

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