1585

  いまだ独身群鶴を見て闇に眠る  淺尾靖弘

「いまだ独身一こういう感慨を男がもつのはいくつくらいからだろうか。女性では二十代
半ばくらいからか。男性では三十代にはいったあたりからか。最近の若い男女はもっと早いのかもしれない。浅尾靖弘はこのとき三十代後半だったが、すこし奥手のほうかもしれない。かれは北陸の富山にいた。

 その感慨を、「群鷦を見て闇に寝る」に浅尾はこめている。ちなみに、歳時記は意地わるくできていて、鶴とか群鶴といっただけでは季語としては扱わない。季語となると、晩秋鶴が渡来するときの、鶴来る、鶴渡る、田鶴渡ると、三月ごろ北方に帰るときの、鶴帰る、帰る鶴、去る田鶴となり、引鶴などという気のきいたことばもある。

 したがって、この句の群鶴には季節の約束はない(無季)わけだが、しかし、「群勵を見て」という叙述には、冷え冷えとした空があり、そこを群れ渡る鷦の清浄がある。寒冷清浄の感いまだ独身群鷦を見て闇に寝るは、鶴が来るころの晩秋初冬でもよく、玄冬でもよく、早春でもよいが、この句では早春の冷気(冴えかえるころ)がいちばんふさわしいようにおもえる。北国の街裏の屋並まで見えてくる。そして同時に、この寒冷清浄の感は作者の心的感応でもあるとおもいもし、それと季節感か重なる。

 空渡る群鶴を見て、やがて、夜の闇にひとり寝る。寝た目なうらに夕空の鶴が残りいその映像とともに眠る。この「闇」を、いきなり内奥の闇とか、現実の外界の闇ととっては意味過剰で味気ない’。夜の闇そのものがよい。-そのほうが幅がでる。

 読み終わって、この青年が鶴の一羽のように見えてくる。(富山の空に鷦を見ることはあるまいから、この句じしんが想像の産なのだが)群れにはぐれて、ひとり北陸の寒暗に眠る鷦。その孤寂と潔癖な気負いのすがたが見えてくるのである。そういえば、浅尾靖弘も鶴のように痩せて、小柄である。ただし顔は日に焼けていて黒い。