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 蛇の腹纒つきて家野となりぬ   武田伸一

 この「腹」が心憎い。蛇がまきつくのならまあまあ普通のことだが、「蛇の腹」がまきついたとなると、感触がまったくといってよいほど変ってくる。ひどく生臭くなり、確実に蛇にまきこまれてしまった鼠のように、家が身動きできない感じになる。蛇のまいたからだが、ぴたっと吸いついているように見えてくる。

 したがって、「家野となりぬ」といわれても、そんなにあわてることはない。それだけでも野の一景のように見えるが、やがて解体し、溶けさって、野の平面だけが残る感じもある。そこには、まだとぐろを解かない蛇だけが、黄灰色の腹部をいたわるように静かに休息している。蛇の腹でまかれて、天然のものとなった「家」。

 同時に、先ほどの鼠のように、「家」の呻吟がきこえてくる。野となるまえの当然の呻吟のようでもあり、そうではないようでもある。そうではないとおもうのは、蛇の腹をまきつかせるイメージの操作のなかに、作者武田伸一の「家」にたいする祈りにも似た批評の影が見えてくるからである。蛇よまけ、野と化せ一一武田伸一は、「家」を見詰めて祈っているようにもおもえる。日本の「家」というものの、とくに「田舎の家」の、共同体などという美辞のとおらない閉塞と血の桎梏、あるいは「家」による宿命のようなしがらみを、秋田の人武田伸一
は知り抜いているのだろう。しかも、その変貌の成りゆきにも異和をおぼえつつ。

 私はこの句を読むとき、自分が育った郷里の秩父の家をおもいうかべる。江戸時代からの黒ずんだ農家の造りは、天井が低く、二階で養蚕がおこなえるようになっていた。そのころではすでに使うこともなかったから、真暗で塵埃が積り放題だった。鼠が走りまわり、ときどきザラザラスースーというかすかな音もきこえてきた。そうすると、祖父はこころもち顔をあげて、青大将が動いているな、と呟いたものである。その、蛇が腹をすってゆく天井の音が、この句のなかからきこえてくるのである。

管理人注・武田伸一は長らく海程(兜太主宰の俳誌)の編集長をしました。同志社大学卒業後、秋田に戻り家業の土建業を継いだが倒産となり裸一つで東京に出た。仲間で秋田に旅行に行った際護岸工事の現場に案内され、ここの仕事で倒産と言った。みんな、わーと笑ったが当時はどんなにか悔しかったことでしょう。この句は実体験から生まれています。蛇の抜け殻画像は2万円もする貴重な品です。」