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  飛騨古川の句碑建立の記念写真

雑木山ひとつてのひらの天邪鬼  金子皆子

 雑木山がひとつある。私は冬の雑木山をおもうが、季節にこだわる必要はない。また、平野のなかの遠方の雑木山が目にうかぶが、それら鑑賞者の自由。ポイントは雑木山が一つあるということ。「雑木山ひとつ」という叙述のやわらかい存在感を受けとればよい。

  掌には、天邪鬼がこれまたひとつい.る。作者は天邪鬼の数をいっているわけではないが、おのずからそう読めるのは、定型音律のはたらきによる。つまり、読むとき、まず「雑木山」と五音で切り、つづいて、「ひとつてのひらの」と八音で読まないと、リズムがとれない。韻文の味わいがない。意味のうえでは「雑木山ひとつ」で切り、「てのひらの天邪鬼」と読むのだが、この文脈を頭においたまま、五・八・五音に読むのである。堀葦男は、音律にしたがう区切りかたを「音節」といい、意味にしたがう区切りを「文節」といっていたが、双方が重なるところに韻文特有の魅力があるといってもよい。その「音節」にしたがう読みによって、雑木山に結びついていた「ひとつ」が、いま一度、「天邪鬼」にも結びつくのである「ひとつ」は音律のうえでは両掛り、意味の点では片掛りということなのだ。

 それにしても、一寸法師のように掌にのっている天邪鬼は、まことに可愛い(「ひとつ」は、天邪鬼の小ささを感じさせる効果をもっているのかもしれない)。いくら逆らっても、片意地をとおしてみても、さては、瓜子姫のお輿入れを邪魔する惡いやつであっても、すこしも憎らしい感じがないのである。惡ければ悪いほど、むしろ愛嬌がある。誰のこころにも住んでいる天邪鬼。そいつを作者はひょいと摘まんできて、掌のうえにのせてみたのだが、どうせこのていどのいたずらものですよ、可愛いものです、とその存在のやさしさを強調しているのである。

 雑木山と掌のうえの天邪鬼に陽があたっている。和やかである。ものなべて、この世に在るものの、やおらかさやさしさがしみてきて、これは作者が信じもとめている世界ともおもえ、あるいは、ありえないとはおもいながらも、あることを願っている世界ともおもえてくる。とにかく和やかである。ほかにも、「妹の雨夜水すましになろうか」などと作ってもいたが、自分も水すましも、さては天邪鬼も雑木山も、さらさら区別をする気はないのである。

 作者は武蔵野の北辺に住む主婦。まだ周辺に雑木林が残っていて、野鳥があつまり、雉鳩が鳴く、彼女の飼猫が木にかけのぼったりもする。

 
金子兜太
平成19年(2007年)二月二十四日、一周忌を集す。真土、智佳子、総持寺の墓地に「金子家之墓」を置く。初代金子みな子(皆子)ここに眠る。墓所明るし。                                
(遺句集「下弦の月」に書かれています。)

 句集「下弦の月」感想          谷 佳紀 (海程同人)

 遺句集「下弦の月」は「花恋」を刊行してから一年余の作品をまとめたものである。わずか一年なのだから「花恋」の感想とそんなに変わらないだろうと思った。ところが印象がまったく違うのだ。なるほどと思ったのは、「花恋」は発病に驚き、うろたえ、闘う決意をし、という癌との闘いの記録集でもある。それに対し「下弦の月」は死期が否応もなく迫ってきていることを自覚し、日々をいとおしむ生活へと心を向けざるを得なくなった最後の一年余の記録集だ。ここには「花恋」にみられる外に向かう激情はない。今この瞬間の生命のありがたさを言葉にする女性がいるのであり、美しいものに甘えその感情を言葉にする女性がいるのであるが、その心底は、誰とも共有できない死を抱えているが故の孤独に耐えなければならないうめき声とも言うべき表現なのである。

管理人・注 金子皆子は兜太の妻です。天邪鬼は兜太先生のようですね。