小川国夫


その腋も潔しわが行く手の海鳥(うみどり)    小川 国夫


 「インド洋航行」の前書がある。船上での句で、間近に海鳥のとびかうさまを見ていたのだ。

 海を旅する句といえば、私はすぐ、中村草田男の「秋の航一大紺円盤の中」と、篠原鳳作の「しんしんと肺碧きまで海のたび」をおもいだす。そのとき、草田男も鳳作も若く、「新興俳句運動」のたかまりのなかにいた。そのせいか、海の旅そのものに陶酔してゆく感性の若さとともに、なかなかに技巧を凝らしているところもあった。

 それにくらべると、小川国夫の句はずっと客観的で、技法にも素人くささがのこる。「その腋も潔し」と、船首の洋上を舞う海鳥に、これから行く先への初い初いしいおもいを托しているのだが、「その腋」といういいかたは卒直である。「わが行手」も無造作でけれんがない。

 そして、「潔し」が、海鳥の羽の裏側の付け根あたりのすべすべした視覚を具体的に伝えることばであるとともに、自分の、静かにふくらむ旅へのおもいを伝える喩えとしても、成功して小川国夫のこの句は「寄物陳思」といえる。ただ、対象をそのまま描きとめるだけの初歩的な手法ではなく、自分の胸を伝えるための喩えを、対象からつくりだしている点、「正述心緒」と紙一重のところにある。

 なお、同時に発表した句に、「最近の目醒め」と前書した「夢の尾は鳩の灰色をどよもし」があり、「ゴッホを思う」の前書が付く「太陽から闇の吐潟ありて向日葵」があった。これらになると「寄物陳思」を十分に離れるが、作家小川国夫の散文の硬質で肉厚な形象力から見て、こういう句をつくることにすこしの不思議もないのである。


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