images

 大空の青艶にして流れ星    高浜虚子

  昭和三十年(一九五五年)といえば高浜虚子八十二歳のときだが、その年の九月九日、大麻
邸での物芽会で三句つくった。この句はそのうちの一つで、ほかの二つも流れ星の句だったから、これが席題だったのだろう。

いま開いているのは、虚子死後、子どもの年尾と星野立子
が、遺された句日記から選んだ『七百五十句』だが、それで見ると、このあとの、八十六歳で亡くなるまでの四年間には星の句は見当らない。大空に関係あるものといえば、「志成ると銀河を仰ぎけり」とか、「光りつゝ冬雲消えて失せんとす」といったぐおいである。

ただ、それ
らの大空の句を読んでいて気づくことは、流星にしろ、雲にしろ、それを直視している句がおおかたで、地上の題材を配合したものがすくないことである。したがって、おおいに主観的である。自分の想像の翼をもっぱらひろげているのである。

これは、『七百五十句』以前でも同
傾向で、「われの星燃えてをるなり星月夜」などという、私の好きな句もある。このこと、虚子が教えたという、見たものをそのまま描き写せ、デッサンしなさい、ということとは矛盾するようだが、これはあくまでも初心者指導の場合のことなのである。虚子はもともと「有情の
人」。子規を「写生趣味」とし、それに対して、自分は「空想趣味」だと書いているほどで、同じ「写生」といっても、子規のように客観に徹したものではない。

 ところで、その大空ものの内容となると、「われの星」とか「志成ると」とか、自己確認から自己主張にわたり、「冬晴の虚子我ありと思ふのみ」などと、いささか唯我独尊の風を呈したりするものもある。

自恃の念と、その自恃の念を強調しないではいられない気持と、その内
面の振幅は、そんなに簡単なものではなさそうだが、この自恃の念が、ほどほどに客体をえたときが、人口に膾炙する「去年今年貫ぬく棒のごときもの」「爛々と昼の星見え菌生え」のような作品となり、掲記の「大空」の句ともなる。虚子といえば、「流れ行く大根の葉の早さかな」のような、主観を十分に抑制した観照の句のよさをおもいがちだが、以上のような主観の旺盛な句のよさも見すごしにはできないわけで、私は、無常を逆手にとって、「なるようになる」(「在るが如くに在る」)と、この世に居すおった「人生の達人」でも、こころの平静はなかなか得難いものだったのだとおもう。そのせいか、最後まで、ときどき生まぐさい好句にぶつかる。「青艶にして」などという張りのあることばにも行き会う。