
蛭田 秩父の農家に育ったお父さんが何故医者になろうとしたんですか。
兜太 秩父谷の事情というのがおわかりにならないと思うので言っておきます。秩父谷ではその頃、農家は養蚕で支えられていたのですが、繭値が年中揺れていますから、そう豊かな農家というのはなかったですね。
親父の方の祖父というのは道楽者でして、あまり農業をしたがらない。家が秩父街道に面していましたから、秩父街道でうどん屋をやっていたのです。そして適当に養蚕業も やっていた。そういう家だったのでお金がない。それから、親戚連中もそんなに金持ちがいない。秩父谷には金持ちというのはほとんどいないのです。
親戚連中が集まると、金子家・金子族は多かったのです。いまでもたくさんいますよ。金子家は、医者の一人か二人つくっていねェと病気になったときに困るということで、親族会議を開いた。金子家のガキで医者になりそうなやつを探して、そいつを医者にしようと、みんなで金を出し合う。それで親父が選ばれ、医者にさせられたんです。
蛭田 医者であったお父さんは勉強の面倒などをよく見てくれたんですか。
兜太 子煩悩でない。息子はほったらかしにという男です。ただ、気にいらないときはぴっぱたく。ひっぱたくということには、こっちも慣れっこになっていました。どうも、親父の気分としか思えなかったね。その時は、ひでェことしやがると思った。
いまでもはっきり憶えてるんだけど、夏休みになって、おふくろに「オレは毎朝、庭を掃くからね」と言って三日ほどやったが、四日目からはめんどくさくなってやめちゃったんだよ。それをおふくろが言わなきゃいいのに親父に話した。
四日目か五日目に、「兜太、来い」と言うんですよ。廊下の柱のところに立てと言う。立った途端にいきなりポカンポカンと殴られた。小学五年ぐらいだったかな。それで、「言ったことはやれッ」と言うだけで行っちゃった。それはいまでもありありと憶えています。
母親はそういうときもおどおとどして見ているだけなんだよ。教育ということでは、教育のキョの字もオレに言ったことはないね。ほったらかしです。
蛭田 そんな環境で育った金子さんは、当時どんな少年でしたか。
兜太 ガキ大将でした。もちろん下級生の頃はガキ大将に使われていたのですが、五年生ぐらいからガキ大将で、あの頃は戦争ごっこがはやっていた。
昭和六年が満州事変ですからね。その戦争ごっこの指揮官というか、そういう役割は五年ぐらいからやりました。いい気分でしたね。だって、先輩から叩かれたり、走れっと言われたりするよりも、おい、お前走れっていうのはいい気持ですから。
それではしゃぎ過ぎちゃって、荒川縁に林がたくさんあって、その林のなかを飛び回るわけですよ。そうするとウルシの木がたくさんあるんだ。そのウルシにかぶれても、治るとまたすぐ飛び回る、というのを繰り返したのを憶えていますね。
それではしゃぎ過ぎちゃって、荒川縁に林がたくさんあって、その林のなかを飛び回るわけですよ。そうするとウルシの木がたくさんあるんだ。そのウルシにかぶれても、治るとまたすぐ飛び回る、というのを繰り返したのを憶えていますね。
それから、麦畑を荒らした。あそこは米ができないところだから、麦なんですよ。そこからとれる小麦粉で麭をつくり、それが一日のうちに一食は必ずあった。その麦畑を子どもが荒らすわけだよ。麦畑の間をワーツと走るのがまた面白いんだよ。そしたら農家が学校へねじ込んで、学校の先生がうちへ来たことがあるよ。
オレは障子の陰からこっそり見ていたんだけど、先生が親父に、子どもの教育にもっと注意してくれ、農家の大事な小麦を荒らすのは困ると言ったら、親父が何と答えたと思いますか。「まあ、子どもはそのくらい元気なほうがいい。それで損害かおるのなら、損害賠償ぐらいはできるから請求してくれ」と言った。
オレは障子の陰からこっそり見ていたんだけど、先生が親父に、子どもの教育にもっと注意してくれ、農家の大事な小麦を荒らすのは困ると言ったら、親父が何と答えたと思いますか。「まあ、子どもはそのくらい元気なほうがいい。それで損害かおるのなら、損害賠償ぐらいはできるから請求してくれ」と言った。
貧乏医者のくせにそういうふうに言っていたのを憶えています。親父、洒落たことを言うなと思ったのを憶えていますよ。そして、わたしに一言も言わなかった。
蛭田 兜太少年の目に父親像はどんなふうに映つていましたか。
兜太 父親の像というのは、子どもの頃から、ヘンな親父だと思っているわけですよ。そのくせ、男っていうのはああいうものでなきゃいかんなアという思いもどこかに根を張りましてね、オレもああいうふうに自分の思ったことは何でもやると。
そして、非常に貧しい医者でしたから、農家の薬代なんていうのはほとんど取らなかったんですよ。そういう親父を見ていまして、わたしも小学校を終わる頃になると両親の生活状態もわかりますから、非常に感心していました。だから、親父のことは、赤びげ先生なんて呼ばれたんですよ。評判よかったんです。そういうこともありましたから、父親のような男になりたいという思いはありましたね。
そして、非常に貧しい医者でしたから、農家の薬代なんていうのはほとんど取らなかったんですよ。そういう親父を見ていまして、わたしも小学校を終わる頃になると両親の生活状態もわかりますから、非常に感心していました。だから、親父のことは、赤びげ先生なんて呼ばれたんですよ。評判よかったんです。そういうこともありましたから、父親のような男になりたいという思いはありましたね。
蛭田 秩父の風土が兜太少年にどんな影響を与えたと思いますか。
兜太 人間としては父から影響を受けている。それから、母が気の毒だという、女性の立場を考えるようになった。それから、秩父というのは、乾いた、石ころの多い山国の大地で懐かしいですね。戦争ごっこで走り回りたりした、その足裏の記憶というのがあるのでしょう。石ころの多い山国の土というのは好きです。
それから、いろいろな木が山にある。ウルシもあるわね。そういうものの懐かしさというのはありますね。
それから、いろいろな木が山にある。ウルシもあるわね。そういうものの懐かしさというのはありますね。
わたしの土とか樹木に対する愛好心というか、それに惹かれる気持というのは、子どもの頃からおのずと養われていたんですね。
蛭田 秩父の大地にどんなイメージを感じていますか。
兜太 それは、もちろん山峡ですから、里山もそうですが、その意味の暗がりというか、日のかげりというか、太陽の光が当たる時間というのは平原と違って短いですからね、そういう意味の絶えず山陰(やまかげ)というのを感じていました。「山陰情念」という言葉を自分で案出しております。そういう言葉を一時期頻繁に使ったことがあります。秩父事件についで書かされたときもその言葉を使って書いたことを憶えています。
里山に囲まれた盆地ですから、陰になる場所が多い。そして日の暮れが早い。そういう早く暗くなっていく大地の上で生活している人の持っている感情の暗さとか、情念の奥深さとか、そういうものは平地の人と違う。
「山陰情念」というのは、わたしにとっても懐かしい言葉で、ああ、オレもこういうなかにある。だから、金子兜太という男は、あかるいように見えるけれども、実は根は案外暗いものを持っているのだと、自分では思っています。決してあかるくない。
蛭田 金子さんの句には「蒼」という字が出てきますね。
兜太 山陰の暗さというのは、蒼、青蒼、暗い蒼の感じですね。
蛭田 山陰の写真を撮ると必ず青く写るのです。人間の目には絶対に青くは映らない。それを科学的に説明できますが、金子さんは、感覚としてその景を青くとらえているんですね。
兜太 生活感覚としてね。単なる感覚じゃない。わたしに言わせれば、青蒼の空気のなかにずっと育ってきてる。そのことは、少年から青年に入ってくるとさらに倍加されてくるわけです。それはどういうことかと申しますと、世の中たいへんな不況になっていたわけですね。
農家の生活はたいへん。要するに、経済的に非常にたいへんになってきている。そうすると、みんな、暗い気持になっているわけですね。特に山陰にいますから余計に暗い気持になっている。しかも、おとなたちがブッブツ言っているわけだ。
子どものわたしにもわかるように、こんな不景気は戦争でもしてもらって、戦争に勝っちゃえばいっぺんに景気が変わっちゃうんだがなア、戦争はねえかなアという調子のおとなの話かどんどん入ってくるわけです。おとなたちがそういうかたちでしゃべっている印象が、わたしのなかでは、ちょうど、青黒い海のそこにいかものが蠢(うごめ)いている感じ、そういうおとなたちの動きというのが、いまでも印象に残っているわけです。それは戦争に入ってからのわたしの態度に影響しているわけです。
蛭田 医者を継がないことを、どうやってお父さんを説得したんですか。
兜太 親父の生活というのは、山国で、周りが貧しかった。そこを自転車で往診していたわけです。そこでトウモロコシを食ったり、漬物を食ったりして、野糞をして歩く、という医者の生活だった。だから体に苦労があったんですよね。それは子どもが見でいでもわかる。
よく、夜明けなんかに、あの頃は往診依頼なんていうのは平気で来ましてね、「先生来てくんなあアって、戸をダンダンダンとやる。親父が、夜中でも出でいき、夜明け時に帰っできてコタッで寝ている、という風景をよく見ていまして、まあ、医者はたいへんだなと思っていた。
しかも、薬代、治療代というのは、貧しいから入ってこない。盆暮の集金で入った現金で生活をしている、という状態だったんですよ。薬代の代わりに庭の木や庭の石ころを持ってきたり、食い物を持ってくるんですよ。自分の家のトウモロコシとかナスとか、荒川でとれたアユなどを持ってきて、これで薬代にしてくんなアと言う。親父はみんなそれを受け入れていた。それから赤ひげ先生なんていわれたりしたんだけど、とにかくそういうものをどんどん受け入れていた。
そういうことで、非常に暮らしは貧しかった。こんな状態で親父の跡を継いでも、経済的に非常にたいへんだから、医者にはなれない、人を救うことを唯一の目的としてやるような医療はできない。結局、食うことに追われているから、どこかで濁りが出てくる。こういう医者になってもしようがない、オレはイヤだと。医者にならないと言ったら、親父がい「うん、なるな」って、はっきり言った。お前の好きなことやれって言ってくれたんです。
蛭田 時代の風潮として、軍人になろうなんていう気はなかったんですか。
兜太 全くない、軍人なんていうのはくそったれだ。全く軍人なんかになる気はない。それでいながら、秩父のおとなたちの戦争があって勝たったらオレたちは楽になるのだがなアという言葉が身にしみていた、海の底の魚の言葉として。
だから大学を卒業して、いよいよトラック島へ行った。その時の自分の胸の内は、田舎の貧しい人たちのために戦う、日本民族が滅びれば日本はだめになるから、日本民族のために戦うと、こういう好戦派になる。オレが好戦的姿勢をとったのはその段階なのです。
だけれども、学校で勉強していることは、はっきりと、戦争は帝国主義戦争である、これは資本主義の罪悪であると。こんなもののためには死ねねえと、こういう思いが一方にあるわけですね。
蛭田 お父さんの生き方に賛同できなかったことはありますか。
兜太 一つだけ親父にわたしが逆らったことがあるのです。それは、親父が右翼なんです。翼壮団(翼賛壮年団)の団長か何かをやっていたんですよ。日本帝国、日本の国のために、と言っていた。そのくせわたしも戦争で命を捨てるなんて思った時期があって、その矛盾があるわけですが。特に、親父は戦後もずっと国家主義者だったすね。それがどうもわたしは気にいらない。親父にもそれははっきり言いました。
オレは親父が男としで非常に好きだし、尊敬もしているけれども、あんたが国家主義者 であるということ、しかも戦争を経たのに変わらないということは、尊敬できないと、はっきり言った。そうしたら親父は渋い顔で黙りでいましたけどね。
蛭田 東大を出て日銀に就職を決めましたが、日銀のどんなところがいいと思ったのですか。
兜太 オレの便宜主義です。中央銀行というのは、戦争に負けても勝ってもなくならないんです。社会主義国に日本が負けて社会主義国になったとしても、中央銀行は残るんです。だから、ここに巣をつくっていれば食いっぱぐれがないってことですよ。
蛭田 東大を出て日銀に就職を決めましたが、日銀のどんなところがいいと思ったのですか。
兜太 オレの便宜主義です。中央銀行というのは、戦争に負けても勝ってもなくならないんです。社会主義国に日本が負けて社会主義国になったとしても、中央銀行は残るんです。だから、ここに巣をつくっていれば食いっぱぐれがないってことですよ。
蛭田 内務省や大蔵省の役人になることは考えなかったんですか。
兜太 官僚は大嫌いです。ああいう威張った野郎は嫌い。特に東大法科というのは、ぶっつぶしたかった。東大の法科というのは、ほとんどの者が、高等文官試験を受けて役人になるわけですよ。それを目指すわけですけどね。それでなれなかったやつらがみんな、会社に入るわけですからね。あの法科のやつらは本当に虫酸の走るような、威張りくさって、腹の傲岸な男というのが多いんですよ。束大法科のことをみどり会と俗称しているのです。
そのみどり会のやつらを、われわれは蛇蝎の如く嫌ってね。だから、学部を選ぶにしても、法科にはいかない、経済学部にいく、というのが、ちょっと心ある連中の常識だった。
蛭田 官僚の体質はいまも変わっていんいと思いますか。
蛭田 官僚の体質はいまも変わっていんいと思いますか。
兜太 いまの官僚はそいつらの残党ですからね。おそらく、いまの法科の連中の多くもそうでしょう。権威主義で、結束が強くて、そして自分の子分・弟分を育て手をつないでいく。だから、定年がきてやめたってあぶれないんですよね。どこかに入れるのです。
この網の掬い方なんかうまいもんですよ。それで国家のためになんて、偉そうなことを言っているけど、政治家を鼻の先で使って、自分力ちはいい思いをしているんですよ。
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